遊戯王の謎−謎の18王朝!名もなきファラオは実在した

謎の18王朝!名もなきファラオは実在した



武藤遊戯のコーナーで、第18王朝に実在し、アメン・ラー神と敵対し、若くして死んだファラオ……として「スメンクカーラー」の名前を出しました。

ここでは、その王様の人物像と彼をとりまく環境を考えていきたいと思います。



スメンクカーラー王については、諸説入り交じり、まったく謎の多い人物です。下の家系図では父も母もはっきりしていますが、これも確実な証拠はなく、あくまでも文献上の推理となっています。
この時代の中心人物はアクエンアテン王であり、王についての文献はたくさんあり、これもまたすべて語るのは困難なため、遊戯王に関係のありそうなところをつまむ感じでまとめたいと思います。

スメンクカーラーという名前を「闇遊戯」と置きかえて読むと理解しやすいかも。












スメンクカーラー王の人物像


★両親について

スメンクカーラーの父親については諸説あります。

アメンヘテプ3世の場合
アメンヘテプ3世は常時300人の美女をハーレムに囲っていたそうです。その女性たちのなかで、スメンクカーラーの母に該当しそうな女性は2人います。

一人はアメンヘテプ3世の正妻、ティイです。
彼女はミタンニ国(注)の出身で、アメンヘテプ3世を良く助け、民衆にも人気がありました。
ただ、彼女の場合、スメンクカーラーの母親になるには、年をとりすぎているので、疑問をなげかける専門家もいます。

もう一人の候補はムトネジュメという女性です(ここにもムトの名前が…)。彼女はアクエンアテンの正妻のネフェルティティの妹です。

ムトネジュメとネフェルティティの出身国もティイ王妃と同じミタンニ国です。
ミタンニ国は政略結婚を盛んに行っていましたが、もともとエジプト人からみると美女の多い国であったようです。
写真はムトネジュメではないかといわれるムト女神像ですが、あまりはっきり断定できません。そこで、彼女の姉であるネフェルティティの像からスメンクカーラーの顔立ちなどを考察してみたいと思います。


ムトネジュメの姉である、ネフェルティティは幼いころから美貌の誉れ高く、本名を「タドゥケパ」と言い、ミタンニ王国の王女でした。
アメンヘテプ3世は彼女の美しさに惚れ込んで6年もかけてミタンニ国王に頼みこみ、膨大な黄金や象牙を差し出し、ようやく彼女を手に入れたそうです。
このとき彼女は15歳の少女。アメンヘテプ3世はすでに40を越えていたはず……。美人はつらいですね。

嫁いで2年ほどでアメンヘテプ3世は死んでしまいます。彼女を不憫に思った正妻のティイは、ネフェルティティを息子のアクエンアテンの正妻として再婚させます。

黄金を積まれた姉よりは、幾分、美人度が低いかもしれませんが、それでもムトネジュメもそうとうな美人であることは間違いないでしょう。



アクエンアテン王


キヤ
★その他の説について

アクエンアテン王とキヤとの間の子説
この説を受け入れると、ツタンカーメンと完全に同父同母の兄弟になります。が、あまり指示する専門家はいないようです。

スメンクカーラーの実在を疑う学者もいます。スメンクカーラーの名が、「ネフェルネフェルウアテン」といい、アクエンアテンの妃、ネフェルティティと似ているため、ネフェルティティとスメンクカーラーを同一人物であると主張しているのです。
また、アクエンアテン王が晩年、政治に興味を示さなくなったことを心配し、ネフェルティティ王妃がスメンクカーラーと名を偽り、共同統治という形で政治を補佐したという説もあります。
ネフェルティティは勇ましい性格だったようで、捕虜の髪をつかみあげ、首を切ろうとしているレリーフが残っています。こんな女性なら自ら王位につこうと思ったかも知れませんね。(過去にハトシェプト女王がファラオに即位しました。
しかしこの説も1907年にスメンクカーラーらしきミイラが見つかって、一応の決着がついています。…が、このミイラの信憑性がまた怪しくなり、当分、ネフェルティティ=スメンクカーラー説も生き延びそうです。

写真のページにスメンクカーラーとツタンカーメンの顔(といっても、棺の写真なんですが…)を並べて載せました。
こうやって比べてみると、スメンクカーラーの意志の強そうなアゴやたっぷり目のクチビルが、エジプト人とは違う風貌であることが分かります。




★彼の育った環境について


土台が残るのみの遺跡。王宮などは泥レンガを建材として建てられているので、年月がたつと風化してしまい、このような殺風景な遺跡になります。


これはアマルナ王宮の床に張られていた彩色画です。スメンクカーラーも日々、このような床を踏みしめていたのです。
スメンクカーラーが生きた時代、それはエジプトの人々が今まで経験したことのない、ひどく異質な時代でした。
今まで人々はアメン・ラー神と多くの自然神を信じて日々を送っていました。しかし アクエンアテン王が即位し、今までの神を捨て、アテン神を信奉しはじめると、エジプト国家はすこしずつ、崩壊しはじめるのです。

アクエンアテン王はアテン神以外の神を認めず、アメン神の名と図像を神殿の壁面や彫像からスカラベにいたるまで徹底的に削除しました。これはアメン神を信じる神官団にとっては迫害とも言え、彼らはひどく王を恨んだことでしょう。
また王は、都をテーベ(ルクソール)からアケト・アテンに移すことで、アメン神官団と決別し、新しい政治を行おうとしました。
その王宮はアマルナと呼ばれ、その時期に開花した新しい芸術の形をアマルナ芸術と呼ぶようになりました。

しかし都での華やかな生活とは裏腹に、対外的には苦しい立場にありました。

アクエンアテン王の祖父であるトトメス4世の時代、エジプトの軍事力は最強を誇り、王自らが指揮し、シリア・パレスチナ地方へ遠征したり、ヒッタイト勢力に対抗するためにミタンニ国と同盟を組むなど、国の版図を拡げ、さらにヌビア地方の反乱も抑え、エジプトに安泰をもたらしました。

しかしアクエンアテン王に政権が移ると、とたんに国境周辺の治安はおざなりになります。使者が王に支援の強化を願う書簡を送っても、アテン神にのみ心を向ける王はそれに対して返書をださないこともありました。そんなことを繰り返して行くうちに、エジプトは次第に国力を低下させて行きました。

やがてアクエンアテン王は政治から離れ、スメンクカーラーは共同統治という形で王に即位しました。
その時、彼は17歳でした。

スメンクカーラーは、彼なりにこの状況を憂い、相変わらずアテン神のみを信奉する王と不満をため込むテーベのアメン神官団との中間に立ち、互いに歩みよるように説得を続けていました。
しかし2年後に突然、彼は亡くなります。あまりにも短い人生でした。
そして三千年後、彼の不思議な墓が発掘されるのです。


★スメンクカーラーの少年時代

われらがスメンクカーラーはどのような少年期を送ったのでしょうか。

人物年表を見ていただくと分かるのですが、9歳の時に都がアケト・アテンへと遷都します。
彼の母親はテーベに残らず、姉であるネフェルティティの侍女としてアケトアテンへ移り住んだようです。
やがてアクエンアテンとキヤの間にツタンカーメンも生まれ、自分が王になるとは思わず、意外にのんびりと生活していたのではなかったかと思います。

王子のたしなみとして、古代神官文字の読み書きと軍事教練は修得していたと思います。
だから闇遊戯だって古代神官文字を読めるはず…です。記憶が戻れば読めるんでしょうねぇ。




★嫁さんについて

スメンクカーラー王は同じ年のメリトアテン王女と結婚しています。
二人の間に娘が一人いたようですが、詳しいことは分かっていません。

エジプトの王位継承の権利は女性が持つので、スメンクカーラーは王子ではあるけれども、メリトアテンと結婚することで正式な王位につけたのではないかという説もあります。



★アマルナ時代とは




アマルナ時代とは、アクエンアテン王がアケト・アテンに遷都してから亡くなるまでのほんの数十年間を指す時代の区分名です。

エジプト美術といえば、壁画ならば、横向きの顔、肩は正面を向き、足は左右に開かれ…という、独特のポーズがありますが、アマルナ時代の壁画は、もう自由奔放、個性を強調し、実物よりもさらに誇張するというまったく新しいスタイルなのです。

たとへば白黒のアクエンアテン像は、女性のような体つきになっています。
胸が女性のようにふくらんでいる像もあります。
また、肖像彫刻になると、頭は長く後ろに突き出し、アゴはたるんだように描かれています。
全体図になると、太股は丸く、太めに描かれているのに膝から下はほっそりとバランス悪く描かれています。

この異様な形をみて専門家は「アクエンアテン王は脳水腫を患っている」と言いますが、私はむしろ、日本の浮世絵版画と同じように、人間を誇張して描くスタイルだと思います。
闇遊戯の髪型もアマルナスタイルかも…。(誇張しすぎ(^_^;))
また、宮殿の床を飾ったカモの絵もそうですが、自然のありのままの姿を描くことを重視したスタイルは、現在の私たちにも容易に理解できる感性だと思います。

では、アクエンアテン王をここまで突き動かした「アテン神」とはなんだったのでしょうか。
アテン神とは太陽の円盤であらわされ、太陽の円盤から放射される光の先端に信者を護る手があり、アンク(生命)を表わすヒエログリフ文字をつかんでいる…。これがアテン神の姿なのです。
この神は今までのように動物のお面をかぶったりしていません。この丸い円盤が神なのです……。と、言われても今までのような擬人化した神を信じてきた人々にはピンとこなかったでしょうなぁ。

アクエンアテン王はテーベで絶大な権力を持つアメン神官団と決別し、新しい都(アテンの地平線)で思うままに己の世界に浸っていったようです。それらは建造物からもうかがえます。

たとえば今までの神殿といえば、巨大な柱にレバノン杉を深く覆い、日の光をさえぎるように作られていました。ところが太陽神アテンを祀る神殿には屋根はなく、むしろ少しでも多くの太陽光線を浴びることができるようになっていました。太陽を身体に受ける…それは神に接する第一歩だったからです。



アニメの第52話のデュエル場は薄暗い神殿内でしたよね。
あそこはきっとテーベじゃないかなと想像してます。
「ファラオよ! オレを倒せば、テーベのアメン神官団は王に従おう」とか何とか言って、デュエルを申し込んだのではないかな…とか。





:ミタンニ国について
    場      所:トルコとイラクの国境付近に首都があったようです。
    歴      史:紀元前1500年〜紀元前1340年頃
    どんな国
    もともと馬の扱いに長けていて,軍事色が強くオリエントの強国と肩を並べるまでの大国に成長しました。
    しかし、ヒッタイトやアッシリアの強国に挟まれ、苦しまぎれの政略結婚などをしましたが、1250年頃、滅んでしまいます。